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遊び分科会 京都保問研(2013年全国保育問題研究会)提案

2014年3月 2日 18:08

いのちと遊ぶ
この提案は、昆虫の専門家が書いたものでも 鳥の専門家でもありません。仕事を通して、子どもたちにもっと身近な生きものとふれあってほしい、感じてほしいと思い提案しています。
私が子どもの頃は、まだ高度経済成長の初めのころで、住んでいるところにはあちこちに空き地があり、田んぼや造成途中の山・河川がありました。子どもたちにとって、それらは絶好の遊び場でした。学校の帰り道、田んぼに入り藁のなかからコオロギを見つけたり、川にザリガニ捕りに出かけたり、田んぼの小川にはメダカやガムシなどが泳いでいました。また春には、田んぼにはレンゲの花が咲きそれを摘んでは花飾りをつくって遊んだものです。そこら中に空き地があってその原っぱには、キリギリスがコオロギ・バッタがいました。堤防を夜に父の車で走るとライトに驚いて飛び跳ねるカエルの姿が今も記憶に残ります。畑のキャベツにはモンシロチョウが群れをなして飛んでいて、網を往復させると子どもの私にも、網いっぱいに捕まえられる事が出来ました・夏にはエノキの大木にタマムシが付いているのを眺めたり、夏休みには自家製の網を毎年作り、かごいっぱいに蝉を捕まえました。今にして思えば、沢山の無駄な時間を過ごして来ました。この無駄な時間が強いて言えば今の自分をつくって北小野なのです。子どもたちにはそのような無駄な時間(大人が言う)たっぷり味わってほしいものです。そのための空間が必要なのです。
 そのような自然は、なくなったのでしょうか?そんなことはありません。身近な小さな自然は今でも息づいています。人がそれに気がつかなくなっただけのことです。
確かに空き地には安全・管理責任という名目で柵ができました。池も川も子どもたちが入らないように柵がされました。田んぼには害獣よけの電柵が設けられました。それより一番の柵は、子どもたちの好奇心に柵をしてしまった大人に責任があります。柵の外でゲームでしか遊べなくなった子どもの目は萎んでいます。ゲームをしている子ども達の目は輝いていますか?好奇心に誘発されて何だろうと見つめている子どもの目は瞳孔が開き、どんぐり眼です。ちょうど、トトロに出会っためいちゃんの目がそのものです。
「子どもの目をどんぐり眼に」そのことがいま求められているのでないでしょうか。宮崎駿は著書の中で「大人が手をださなければ子どもはすぐに元気になる、先生たちの考え方が鍵だし親の考え方を変えるのも大切、その裏付けとなる空間がいるのだ」と伝えています。
 その裏付けとなる空間はまだあります。気が付いていないだけです。今回の提案は、里山・空き地・道端・神社・公園・河川・雑木林に行けばどんな生きものがいるかを、わかりやすく伝えたいと思います。生きものを観つけたら、その生きものを観察する方法、遊び方もお話しします。生きものと遊んでこそ、いのちと触れることなのです。たっぷりいのちと向き合い、ふれる、そこから子どもたちに不思議さに目を向けた感性を結びつけ、科学する心を持ってほしいと思います。「いのちの素顔」という森崎和江さんの詩は皆さんに問いかけています。
「ものごころつく頃の幼児にとっての自然とは わがいのちと共鳴する 他の生きものたちのいのちとたわむれ遊ぶことによって感知する 生命界と天然との呼応である 生まれたものの心身を養い守るのは親ではない 大自然なのだ」いのちの素顔より抜粋
同志社大学の西澤由隆教授がこんな事を話してくれました。「あなたと私は同じものを観ているがみえているものが違う。」観ている景色は同じでもその中に何があるか、一本の木でもその名前・来る虫 花の時期・葉の形それぞれが違いとても深いものがあると言うことが解らない。どれも同じように見える。その違いがわからないというのです。違いについて知ることはそれほど難しくはありません。だって保育士や幼稚園教諭は子どもの名前それに親の名前その他おじいちゃんおばあちゃんすべて後ろ姿でも解るくらいの「能力の持ち主なんですから。
身近な生きものと遊ぶことを知らない大人が子どもたちに生きものの素晴らしさを伝えることはできないと考えています。また子どもの発見に共感出来なければ子どもの好奇心はなくなります。どこに どのような生きものがいるかが分かれば、自分たちの住んでいるところの地図を作りましょう。季節ごとに 何年もかけて記録として、年齢にあった探し方があるはずです。地図に観つけた生きものを書きとめることでいままでと違う地域の見方を再発見できることでしょう。「身近ないのち(自然)を子どもたちのために」
 この提案は生きものの不思議を子どもに感じとってもらうようにしてほしいと考えています。生きものの不思議の答えを教えるのではなく(知るのではなく)、子どもが気づくような働きかけをしてほしいのです。よく言う「そそのかし」です。以前小学校の教師に生きもののおもしろさを伝える授業をしました。その時はテントウムシの話です。「テントウムシの名前について、この虫は捕まえて手のひらに載せればどこに行きますか」と子どもに問いかけて子どもは実際にテントウムシ触っていると「指先にいく」と答えます・「その次にどうなる」と問うと「飛んでいく」「どこに」「お空に」「お空には何がある」「、、、、、。」 「太陽」「そやな、太陽はおてんとうさんともいうのやで」「虫なので「お」はつかないから。テントウムムシというの」と子どもがいかにも発見したように伝えた授業だったのですが。次の日教師は、自慢げに子どもたちに答えをすべて話していました。大人が自慢してどないなるんでしょう。これでは子どもの興味は引き出せません。さも子どもが自分で考えて、発見したかの様な働きがけが大事です。答えをいえばそれ以上の探求心は生まれません。こどもたちは遊びの中で本来の姿を発見します。遊びには答えはありません。だからじっくりそのものと対話します。その観察力はすばらしいものです。レイチェルカーソンは「知ることは感じることの半分も重要ではない」と伝えています。感じることは観察から始まります。「観察」はまず「観」という字が先に来ます。観ることです、そして「察」が来ます。観てから考えます。そのことが大事なのです。科学離れは知ることが先走り観ることが置いてけぼりになっているからではないかと言われています。中国の古いことわざに「聞くことは忘れることなり」「観て聞くことは覚えることなり」「見て聞いてやってみることは理解することなり」とあります。子どもの発想を大切に、間違っていてもかまいません、いずれその間違いに、興味があるこどもは自ら気づきます。観察に正解はありません。それぞれが自分の感性で接する、その働きがけをしてください。
以前保育園の研修会で呼ばれたときに次の実践がありました。保育園でセミを飼っていたら、数日後死んでしまった、そのとき子どもが「ナンデシンダン」と聞いたとき保育士は「もうおじいちゃんになったんや」といった、それを聞いた子どもが「オトウチャンモ、センセイモ、オジイチャンイナッテホシクナイ」といった。小さな生きものの死を身近な命に結びつける事の出来る子どもは、命について感じ取ることが出来るのです。
またこのような実践もあります。飼育していたザリガニが卵を産んで、もうすぐ生まれそう、産まれたら餌がないので共食いを始めるだから、もう一つケースを買ってほしいと事務所に伝えに来ました。たまたま居合わせた私は共食いをする事を子ども達は知っているのか?もし、知らないのならその姿を見せてはどうか、そのとき子どもたちが、「かわいそう」とか「どうしたらいいの」かを考える時間を与えたらどうか、子どもの中からもう「一つ飼育ケースを」と気づくことが大事なのではないか、もしかしたら数匹死んでしまうことになるかもしれない しかし、はじめからケース与えたら子どもに「いのち」について向かい合う事は出来ない。大人は答えを知っているが答えを言うのが大事なことでなく、いのちを感じるように働きかけることが保育に求められているのではないだろうか。
 「鏡は先に笑わない」という言葉があります。大人が生きもののおもしろさ 不思議さを知らないで子どもに伝わるわけがありません。植木鉢の穴が何故開いているのかそのことについても発表時に伝えたいと思います。子どもには沢山の水をかけてあげたいものです。
 発表時は、身近な生きもの不思議についてスライドを交えて補足したいと思います。