2014年3月アーカイブ

宝が池プレイパークからのおしら

2014年3月21日

私も参加しています。


遊具も、遊びもみんなで作る遊び場!

プレイパークにある遊具のほとんどは、サポーターやプレイリーダーによる手作り。
ここでは、おもちゃも、遊び方も自由に作って遊びます。
主役はこどもたちだけではありません。遊び場を作る楽しさは大人も一緒。普段は扱えないような大きな木材を使って様々なものを作っていきます。
また、年に数回行われる自然や環境、子どもをテーマとしたスタッフ研修では実践に基づいた知識や技術を身につけることが出来ます。

宝が池プレイパークでは、子どもたちの自由なあそびをサポートするプレイリーダーや、『自然遊び教室』での環境学習をサポートしてくれるスタッフを募集しています!

プレイリーダー サポータスタッフ
自由で創造的なあそびをこどもたちと一緒に楽しみ、感動し、学んでいきます子どもたちが冒険心や挑戦心をはぐくみ、実行できるよう、遊びを盛り上げ、見守り、手助けをしていきます。
こどもたちと遊びたい、笑顔がみたい、昔あそびを教えたい、技を披露したい 先生をめざしている...
どんなきっかけでもOK!

環境教育のサポートやフィールド調査
あそびを通して、自然に親しみ理解を深めていく「自然あそび教室」の運営をサポート。一緒に自然あそびを楽しみながら、子どもたちの探究心を呼び起こします!
魅力的なプログラムも考えてみませんか?
クイズやゲームが得意
自然が大好き!
鳥や虫・・生き物が好き!


参加方法・条件など

活動頻度は問いません。長期で関わっていただける方、大歓迎!!
まずは一度、お電話もしくはEメールでご連絡ください。

★中学生以上ならどなたでもOK!!
★ボランティア保険に加入いたします
★当日の昼食または交通費の一部を支給します


お問い合わせは

財団法人 京都市都市緑化協会
宝が池公園子どもの楽園管理事務所 (担当)野田・小川・谷川
〒606-0037 京都市左京区上高野流田町8 子どもの楽園内
TEL:075-781-3010 FAX:075-781-4422
E-mail: kaerusenpai@kyoto-ga.j

【NAREC推薦本】園の身近な生きものと出あう探検ブック! 小泉昭男(環境再生医)

2014年3月16日

 自然環境復元協会の推薦著書に選ばれています


推薦【推薦者】 下重喜代(自然環境復元協会員)

【コメント】

幼い頃に自然の中で楽しく遊んだ経験がある人は、長じてどの分野に進もうとも自然を大切にする行動がとれるといわれている。しかし、日本中どこへ行っても虫取りをする子はおろか、外で遊んでいる子どもを見かけなくなって久しい。人類の歴史始まって以来、子どもはズーッと自然の中で泥んこになって身体と五感を駆使して遊びながら、豊かな感性や好奇心を育て、知恵もつけてきたというのに。これでは日本の未来が危ないと日頃から思っていた矢先、この本と出会った。

凶悪な事件が多くなった今、幼い子どもにとって自然の中に誘導してくれる大人の存在なくして外遊びは出来なくなっている。特に、こども達を散歩に連れ出すことの多い保育園や幼稚園の先生に本書を薦めたい。

いつも出かけるフィールドにはどんな生きものが棲息していそうか、見当がつく仕掛けになっているのが嬉しいし、公園、神社、雑木林等々の背景絵に、見つけた生きものを描きこんでいく使い方も出来る工夫もありがたい。

http://www.narec.or.jp/infomation/1481/

遊び分科会 京都保問研(2013年全国保育問題研究会)提案

2014年3月 2日

いのちと遊ぶ
この提案は、昆虫の専門家が書いたものでも 鳥の専門家でもありません。仕事を通して、子どもたちにもっと身近な生きものとふれあってほしい、感じてほしいと思い提案しています。
私が子どもの頃は、まだ高度経済成長の初めのころで、住んでいるところにはあちこちに空き地があり、田んぼや造成途中の山・河川がありました。子どもたちにとって、それらは絶好の遊び場でした。学校の帰り道、田んぼに入り藁のなかからコオロギを見つけたり、川にザリガニ捕りに出かけたり、田んぼの小川にはメダカやガムシなどが泳いでいました。また春には、田んぼにはレンゲの花が咲きそれを摘んでは花飾りをつくって遊んだものです。そこら中に空き地があってその原っぱには、キリギリスがコオロギ・バッタがいました。堤防を夜に父の車で走るとライトに驚いて飛び跳ねるカエルの姿が今も記憶に残ります。畑のキャベツにはモンシロチョウが群れをなして飛んでいて、網を往復させると子どもの私にも、網いっぱいに捕まえられる事が出来ました・夏にはエノキの大木にタマムシが付いているのを眺めたり、夏休みには自家製の網を毎年作り、かごいっぱいに蝉を捕まえました。今にして思えば、沢山の無駄な時間を過ごして来ました。この無駄な時間が強いて言えば今の自分をつくって北小野なのです。子どもたちにはそのような無駄な時間(大人が言う)たっぷり味わってほしいものです。そのための空間が必要なのです。
 そのような自然は、なくなったのでしょうか?そんなことはありません。身近な小さな自然は今でも息づいています。人がそれに気がつかなくなっただけのことです。
確かに空き地には安全・管理責任という名目で柵ができました。池も川も子どもたちが入らないように柵がされました。田んぼには害獣よけの電柵が設けられました。それより一番の柵は、子どもたちの好奇心に柵をしてしまった大人に責任があります。柵の外でゲームでしか遊べなくなった子どもの目は萎んでいます。ゲームをしている子ども達の目は輝いていますか?好奇心に誘発されて何だろうと見つめている子どもの目は瞳孔が開き、どんぐり眼です。ちょうど、トトロに出会っためいちゃんの目がそのものです。
「子どもの目をどんぐり眼に」そのことがいま求められているのでないでしょうか。宮崎駿は著書の中で「大人が手をださなければ子どもはすぐに元気になる、先生たちの考え方が鍵だし親の考え方を変えるのも大切、その裏付けとなる空間がいるのだ」と伝えています。
 その裏付けとなる空間はまだあります。気が付いていないだけです。今回の提案は、里山・空き地・道端・神社・公園・河川・雑木林に行けばどんな生きものがいるかを、わかりやすく伝えたいと思います。生きものを観つけたら、その生きものを観察する方法、遊び方もお話しします。生きものと遊んでこそ、いのちと触れることなのです。たっぷりいのちと向き合い、ふれる、そこから子どもたちに不思議さに目を向けた感性を結びつけ、科学する心を持ってほしいと思います。「いのちの素顔」という森崎和江さんの詩は皆さんに問いかけています。
「ものごころつく頃の幼児にとっての自然とは わがいのちと共鳴する 他の生きものたちのいのちとたわむれ遊ぶことによって感知する 生命界と天然との呼応である 生まれたものの心身を養い守るのは親ではない 大自然なのだ」いのちの素顔より抜粋
同志社大学の西澤由隆教授がこんな事を話してくれました。「あなたと私は同じものを観ているがみえているものが違う。」観ている景色は同じでもその中に何があるか、一本の木でもその名前・来る虫 花の時期・葉の形それぞれが違いとても深いものがあると言うことが解らない。どれも同じように見える。その違いがわからないというのです。違いについて知ることはそれほど難しくはありません。だって保育士や幼稚園教諭は子どもの名前それに親の名前その他おじいちゃんおばあちゃんすべて後ろ姿でも解るくらいの「能力の持ち主なんですから。
身近な生きものと遊ぶことを知らない大人が子どもたちに生きものの素晴らしさを伝えることはできないと考えています。また子どもの発見に共感出来なければ子どもの好奇心はなくなります。どこに どのような生きものがいるかが分かれば、自分たちの住んでいるところの地図を作りましょう。季節ごとに 何年もかけて記録として、年齢にあった探し方があるはずです。地図に観つけた生きものを書きとめることでいままでと違う地域の見方を再発見できることでしょう。「身近ないのち(自然)を子どもたちのために」
 この提案は生きものの不思議を子どもに感じとってもらうようにしてほしいと考えています。生きものの不思議の答えを教えるのではなく(知るのではなく)、子どもが気づくような働きかけをしてほしいのです。よく言う「そそのかし」です。以前小学校の教師に生きもののおもしろさを伝える授業をしました。その時はテントウムシの話です。「テントウムシの名前について、この虫は捕まえて手のひらに載せればどこに行きますか」と子どもに問いかけて子どもは実際にテントウムシ触っていると「指先にいく」と答えます・「その次にどうなる」と問うと「飛んでいく」「どこに」「お空に」「お空には何がある」「、、、、、。」 「太陽」「そやな、太陽はおてんとうさんともいうのやで」「虫なので「お」はつかないから。テントウムムシというの」と子どもがいかにも発見したように伝えた授業だったのですが。次の日教師は、自慢げに子どもたちに答えをすべて話していました。大人が自慢してどないなるんでしょう。これでは子どもの興味は引き出せません。さも子どもが自分で考えて、発見したかの様な働きがけが大事です。答えをいえばそれ以上の探求心は生まれません。こどもたちは遊びの中で本来の姿を発見します。遊びには答えはありません。だからじっくりそのものと対話します。その観察力はすばらしいものです。レイチェルカーソンは「知ることは感じることの半分も重要ではない」と伝えています。感じることは観察から始まります。「観察」はまず「観」という字が先に来ます。観ることです、そして「察」が来ます。観てから考えます。そのことが大事なのです。科学離れは知ることが先走り観ることが置いてけぼりになっているからではないかと言われています。中国の古いことわざに「聞くことは忘れることなり」「観て聞くことは覚えることなり」「見て聞いてやってみることは理解することなり」とあります。子どもの発想を大切に、間違っていてもかまいません、いずれその間違いに、興味があるこどもは自ら気づきます。観察に正解はありません。それぞれが自分の感性で接する、その働きがけをしてください。
以前保育園の研修会で呼ばれたときに次の実践がありました。保育園でセミを飼っていたら、数日後死んでしまった、そのとき子どもが「ナンデシンダン」と聞いたとき保育士は「もうおじいちゃんになったんや」といった、それを聞いた子どもが「オトウチャンモ、センセイモ、オジイチャンイナッテホシクナイ」といった。小さな生きものの死を身近な命に結びつける事の出来る子どもは、命について感じ取ることが出来るのです。
またこのような実践もあります。飼育していたザリガニが卵を産んで、もうすぐ生まれそう、産まれたら餌がないので共食いを始めるだから、もう一つケースを買ってほしいと事務所に伝えに来ました。たまたま居合わせた私は共食いをする事を子ども達は知っているのか?もし、知らないのならその姿を見せてはどうか、そのとき子どもたちが、「かわいそう」とか「どうしたらいいの」かを考える時間を与えたらどうか、子どもの中からもう「一つ飼育ケースを」と気づくことが大事なのではないか、もしかしたら数匹死んでしまうことになるかもしれない しかし、はじめからケース与えたら子どもに「いのち」について向かい合う事は出来ない。大人は答えを知っているが答えを言うのが大事なことでなく、いのちを感じるように働きかけることが保育に求められているのではないだろうか。
 「鏡は先に笑わない」という言葉があります。大人が生きもののおもしろさ 不思議さを知らないで子どもに伝わるわけがありません。植木鉢の穴が何故開いているのかそのことについても発表時に伝えたいと思います。子どもには沢山の水をかけてあげたいものです。
 発表時は、身近な生きもの不思議についてスライドを交えて補足したいと思います。

昨年の全国保育合同研究集会 保育士の専門性提案文

28 保育の仕事と保育士の専門性
身近ないのちと指導性      京都女子大学 非常勤講師  小泉昭男
保育の仕事とは何か。私の未熟な保育の経験と今の仕事を通して考えたと事を提案に返させて頂きたいと思います。
私の仕事は造園業で、各個人邸のお庭の庭造りから、管理作業などをしています。また、保育園の園庭づくりなどにも、微力ながら関わらせて頂いています。
園庭づくりをする中で、私は、基本園庭は身近な生きものが来るように仕掛けを作り、また五感をとぎすます空間 遊びほうける空間作りを目指してします。(昨年は兵庫合研にて安全で豊かな園舎・保育環境作りで園庭づくりの提案をさせて頂きました)
そのような空間を作ると、必ず身近な生きものがやってきて、子どもの好奇心に火をつけます。さてここで問題なのがこの好奇心をどうするかです。
 京都女子大学で保育環境の講義を非常勤で受け持たせていただいているのですが、学生に春の雑草といわれる草花を毎回講義の前に写真で見せる様にしています、名前すら知らない子どもがほとんどです。大学内にある草花にも興味がないようで、観たことがないといってきます。決して観たことがないということはないはずで、そこには興味・関心がないということなのでしょう。また保育園に呼ばれて園庭の樹木 草花の名前や遊び方を伝える事があるのですが、毎日必ず観ている樹木・草本などを知らないのです。若い先生は、子どもの頃に生きものと出会った経験が少なく、生きものの事をよく知らない事が多くあります。園庭に大型遊具が設置され、子どもはそれらで遊んでいるのですが私は大型遊具などでは好奇心 探求心は生まれないと考えています。一見遊んでいるようにも見えるけれど遊具で遊ばされていうだけという考えです。砂場などは可逆的な要素を持っていますから、遊びを作り出すことが出来ます。それにもまして遊びをふくらせるのは、身近な植物を含めた生きものだと考えています。問われるのが保育士の指導性です。学校教育と大きく違うのは科目で分かれていないということです。「学習」でないということです。先生の中には子どもは未熟だから教えないとだめだと考えておられる方もいます。言葉がけが多くなり、子どもに考える時間を作らせないこともあります。園庭で遊んでいる子どもに食事の時間なので入るように促します、子どもは遊びに夢中で入ろうとしません。すると保育士は「あっ ○○ちゃんのご飯たべちゃうぞー」と言ったりすることが観られます。これは指導でもなく強制?です。子どもに考える時間はありません。生活リズムでそのような働きかけがある中で、身近な生きものを見つけて時に、どのような言葉がけをするでしょうか。未熟な保育士だと、子どもがケムシを持って来たとき、「気持ち悪いから捨てておいで」「触ったらあかん」というでしょう。そのような言葉がけでは子ども興味・関心は育ちません。また生きものの事を知る保育士は「それは、マイマイガの幼虫だから」「それはヒトリガっていうのよ」なんて自慢します。名前を教えるのが大事ではなく、子どもに寄り添い、「名前がわからないから調べてみよう」と伝えて、保育士がどの図鑑で調べればいいかを知っていることが重要です。図鑑はたくさんありますが、どの項目を調べるかを知らないと時間ばかりが過ぎ去り、子どもの興味・関心が持続出来なくなります。ケムシや芋虫を調べるときは、副足の数で、蝶なのか蜂なのかがわかります。最低それぐらいの知識であとはその項目を調べれば名前がわかります。そこでその項目を子どもに読んであげればいいだけです。興味のある子は次の生きものを探しに行くか、その虫を飼育するか考えます。飼育しなくて元の場所に返すだけでも大事なことです。
学校の教師と大きく違うのは、子どもの興味 関心をどれだけ引き出せるかです。子どもは答えを求めますが答えを言えばそれまでです。名前を覚えることではないですが、自然観察会などをしたときに、「この草は何ですか」と参加者から言われます。名前を伝えると、そのときはわかった気になるのですが、しばらくして同じ花を見つけて「これは何ですか?」と聞かれます、「さっき伝えましたやんか」言うのですが、覚えていませんというのです。まさに「聞くことは忘れることなり」です。そこで私は、「この花揉んでみてください、何かにおいます」といいます、観て 匂いをかいで、「何かにおいますよね」というと「そういえば青臭い」「なんかキュウリに似ている」と言う答えが返ってくると、「正解、キュリグサといいます」と伝えます、五感に働きかけて伝えると名前を覚えることが出来ます。
 身近な生きもののおもしろさ 不思議さを保育士はほんの少しだけ知っておく必要があります。自らが学ばないと子どもに自然のおもしろさは伝えられません。科学の芽生えは身近な生きものの不思議から